記憶の忘却-otherside-


学校には随分前に通うのをやめた。



学園理事長の娘、漫画の世界では最早ありきたりな肩書きによって、条件付きではあるけどあたしは今不登校ながら退学を免れている。
一生に一度の青春時代を学校に行かず過ごすなんてと母さんは嘆いていた。何故か、と聞かれて返すには些か漠然としすぎている。でもこうとしか答えられないのは本当だ。
「いきなり学校が怖くなった」。


中等部2年の10月。登校して教室に入るや否や酷く気分が悪くなった。
急に顔を青くして足元がぐらついたあたしにクラスメイトが気付いて、保健室に連れて行ってくれる間にもどんどん様子は悪化していった。養護の先生もあたしの顔を見るなり今すぐ帰りなさいと告げて、結局あたしは朝のうちに早々と自宅に戻ることになった。
けれど、おかしな事に家に着いた頃には、さっきまでの不快さは嘘のように無くなっていたのだ。

本当に気分が悪かっただけ。
突然あんな風になってからあっさり治るなんて変な話だけど、実際体のどこもおかしくはない。それに中間考査まで間もないのだ。今このまま授業に出なかったら勉強に支障が出る。せっかくこれまで皆勤だったのにこれ以上出席点を落とすのも嫌だし、


やっぱり学校に戻ろう。





―そう思ったところで、足が竦んだんだっけ。
























「お前は何も見ていないし、何も知らない。此処には何も無かった」


あの後、あたしは学校に通えなくなった。
どうしてなのかまるで心当たりがなかった。学校生活は概ね良好で充実していたし、円滑すぎてつまらないと感じたことはなかった。
それなのに、行こうとするたびあの日の朝の感覚が襲ってきた。
それがどこから来るのかも分からない。母さんに話してみても、楽しそうに学校での出来事を報告していた、覚えのあるあたしの話しか出てこなかった。


それもその筈だ。
原因に心当たりが無い以前に、原因自体が無かったことにされていたのだから。

あたしは、忘れたことすら忘れていたんだ。


「…な……にっ」



―――そして、これからまたそうなるんだ。



「―やってんだ馬鹿野郎!!!!!!」



酷い悪寒。鳥肌。冷や汗。目眩。頭痛。息切れ。ぼやける視界と意識。
あたしが全身全霊で、あの感覚を叫んでいる。


「…………」
「何だよその目っ……死んだ魚だって…そんな目しない………」


既に"記憶の忘却"は始まっている。
額に翳された右手に薄められていく思考。
今こいつが言ったことは何だった。
今あたしは何て言った。
これから何を言おうとしてた。
分からない。無くなっていく。
認識する度にどんどん大きくなっていく、一つの感情。
何かを忘れていたあたしを思い出して今更掴んだ、この感覚の正体。


「…お前には解るまい。いや、解らなくて良い……俺の問題だからな」


発されたそばから薄れていく言葉を取り零さないように、ひたすら脳内で反芻する。
あたしの状態が状態、ひどい不快感がさらに重くなるばっかりだ。
でも…忘れるな。これに呑まれたら終わりだ。


「あんたの…?……じゃあ、今何してんだよ……」
忘れちゃいけない。無理矢理にでも自我を保て。考えろ。何か言え。


「あたしにっ…こんな思い…させてっ、只じゃ…済まされ、ないぞ……!!!」

「忘れろ…此処も、俺の事も。そんな下らぬ気持ちも」


―聞こえてない。こいつは今、あたしの記憶を消すことしか考えてない…


「邪魔になったら忘れれば良いってか……?呆れた…アンタ今まで…そんな気で、あたしと喋ってたんだ…」



それでも耐えろ。
…忘れるのは、
それだけは、










『………………い、や』








――え、





『…!』
『いやだよ×××…ねえ、何しようとしてるの…?』
『…ユズ…』
『何で…こんなの酷いよ…!!』
『………』
『×××ッ』
『………っ………はは……やっぱり怖いなあ、ユズは…』


  掠めた。
鬱陶しい前髪の隙間から覗いた目。





『十割が義務か、まあそんなものではないのか』
『えー?結構神経使うんだよそれ…。あーもうほんと面倒…覚えるのつまんないんだもん』
『覚える…それをか』
『んー。読む?』
『おお、これが教科書か……………ふむ、確かに予備知識の無い小娘には面白味の無い代物であろうな』
『悪かったな予備知識なくて…って、おっさんは面白いんだ』
『Usualの歴史の流れを大まかに理解するには最適だと思うが。てすとが近いのであろう、小娘の頭にも残るように面白く話してやろうか』
『いちいち癪に障る言い方だなアンタ…。まあ良いや、お願いします』
『……………小娘お前…丁寧語が使えたのか…』
『はあ!?あたしだって流石にそれくらい使うって!』



『へえー、こんな風に物を教わるのかあ…。良いなー、僕の所でもこれくらい楽しくやってくれればいいのに』
『その教科書、そこまで楽しい?…というか、×××はこれ分かるの?』
『一通りは楽勝かな!僕らはもっと細かいことまでやってるからね』
『ふーん、まあ小学生の内容だもんね……でも絶対にどこかでケアレスミスしそう』
『なッ!!?し、失礼だなあ!…………まあ、良く言われるけどさ………はあ………』
『ふふ、ごめんごめん、冗談だよ…。ほら、小学生に言われたくらいで本気で落ち込まないでって』
『…あのさ、君って本当に小学生…?』



『おーい起きろ起きろーっ、朝だぞー』
『…………………。また来たか小娘…』
『来た来た。絶対あんた昼夜逆転激しそうだと思ってさ、矯正してやろうかと』
『…要らん………。貴様の所為で此処のところ寝不足なのだ、寝かせろ……』
『だったら昼読んで夜は寝る!……って父さんがうるさい』
『……それで俺に八つ当たりか』



『ねえユズ!このガラス箱の中銀貨がいっぱい流れてる、どうやって取るのかな?』
『……!×××、こっち…!!』
『おお?へえ、そういうの好きなんだ。…細い曲がったプラスチックが二本だけ…本当に取れるのこれ?』
『と、取れるよ多分!……ね、一回だけやっちゃ駄目かな?』
『げーむせんたーは禁止されてるんでしょ?取れたら取れたでまずいんじゃあ』
『あっ………う……そうだった…』





『ほら』
『……!!』
『食べたそうだったからあんたのも買ってきた。感謝してよ?』
『…』
『―なんてね、絶対言わないだろうし良いや。溶けちゃうし早く食べよ、はい』
『………………いや』
『?』





『……有り難う』
















「じゃあッ…―どうしたら良いんだ!!!」

鮮やかに浮かんでは弾けていく記憶を、咆哮が一掃した。


「…は」
初めて見た表情に面食らう。


「俺はっ……今まで、どうしたら良かったんだ……?」


何言ってる。
どうしたらなんて、いくらでもあったじゃないか。


「………なんだ、あたしより長く生きてるのにそんなことも分からないの」


なんで気付かない。


「…何年生きようと…解らぬ事は多い」


本当にこいつには解らなかったのか。
不都合があったらリセットする。そんな単調でつまらない方法以外の選択肢が。


「…解ったとしても、良いことは無い」


なんで…




「だから―――消して忘れる」



「!!!」
右手の代わりに翳されたのは、より強い光を纏った左手。
――本当に、本気。
大きく震えが走った。
考えることを放棄しかけていた脳が叩き起こされる。


「―っい、やだッ…嫌だッ!!離せ!!!それだけはっ…絶対、どうしても嫌だ!!!!」

「恐れるでない……すぐ楽になる」


喚いても虚しいだけ。その言葉に従うように、体から力が抜けていく。

「直ぐ、何も感じなくなる」


逆らおうと、なけなしの意地でライブのコートにしがみついて立ち続ける。
でもきっと、もうそろそろ。


怖い。


「嫌…………嫌だ…………!!」

握りしめているはずの両手に何の感触も感じない。
怖い。怖い。怖い。
視界が滲んでくる。ついに視覚まで駄目にされたのか。それとも。




『           』



「――ッ…!!」


恐怖の中に、穴だらけの記憶が走った。


そうだった。そんなことを最後に言って、あいつは過去のあたしから記憶を奪ったんだ。

――――…なら。




「愚かな……もう諦め「――――い」


「…?」







「………あんたの事なんか…大嫌いだ」











多分、今まで一度も言われたこと無いでしょ。
嫌でも耳に残ればいい。


…だからあんたも、あたしのことを"忘れない"でいてよ。




「、」









その顔を見ないままに、あたしは真っ暗な闇に突き落とされた。


















































「ごめん…」


謝ったところでどうにもならないけど。





「…ごめん」
ああ、やっぱり僕は馬鹿なんだな。
いつまでたってもこんな風だから、
師匠にだって見限られて、
今、大切な友人を失った。
もっとも、師匠に関しては僕が勝手にそう呼んでいただけで、あの人は元から僕なんて眼中に無かったのかもしれない。
それでも、僕はもうあの人に顔向け出来ない。あの人から少しだけ学んだ術を、こんな風に使ってしまったのだから。

『僕はずっと忘れない』なんて言ったって、責任を取る事には絶対にならない。これからこの子はきっと、僕が考えているよりずっと深く苦しむんだろう。気丈に振る舞うけど、この子はそういう子だ。
その原因が何か忘れてしまったんだから、余計に。

「…ごめん…」
止まない涙と一緒に何回でも零れる言葉。
この子は最後の最後に、一筋だけ涙を流した。最初に会った頃はあんなに泣き虫だったのに、今じゃ泣き虫は僕だけだ。
情けない。

「ごめん」

なあ、そろそろ泣き止まないか。
僕はこれからこの子を無事に家に返して、僕と僕に関係する全ての痕跡を拭い去らないといけない。
完璧にとまではいかないだろうけど、その方がこの子の為だと思ったから。
さあ、長居は良くない。









「…」


…それでももし、いつか君があの図書館へ行ってしまう時が来るのなら、


本の山の奥の奥、僕の尊敬するあの人を、どうか怖がらないで。


きっと君なら彼に教えてやれる。
閉じた空間で傍観しているだけじゃ分からない、広い広い世界の事を。

君には絶対に、そんな力があると思うんだ。





















…楽しかった。





本当に。











END